2009年05月05日 21:07
『仮面劇』
今となってはもう、名前しか知らない。
人間の記憶というものは実に曖昧で、大事な記憶ほど脳内でなぞるたびに真実からは遠ざかる。
理想の色を塗りたくり再生をすれば、いつしか虚像の真実が出来上がる。
私は幸せだったのだと。
思い出を思い出のまましまっておくことができなかった。
だから私は彼を探すことにした。
今となってはもう名前しかわからない人を。
個人情報保護法などという条例のおかげで捜査は難航した。
インターネット、市役所、私たちの思い出の場所。
思いつく限りの方法で彼を探した。
気付けば時間もお金もなくなっていた。
ずいぶん遠くまで来てしまった、と最後に入った飲食店で私は彼と再会した。
古びた定食屋の隣のテーブルに座った、作業着姿の男たちの中に彼が居た。
おぼろげにしか残っていなかった記憶の中の彼の姿が瞬時に一致を見せた。
薄くなった髪や痩せた体が、空白の十年を物語る。同僚らしき男はが彼の名を呼んでいた。
注文した天丼の海老の衣を箸ではがしながら、私は彼らの会話に耳を寄せていた。
彼の出で立ちから現在の生活がどのようなものかはすぐにわかった。
くたびれた作業着に、ボロボロのスニーカー。
注文したのも一番安い素うどん。
ねぇ。私、来月には企業の社長と結婚するのよ。そう言ったら彼はどう思うだろうか。
しばらくして彼らが店を出ると、私はすぐに店主に聞いた。
「あの人たちは常連さんだよ。すぐそこの下水処理場で働いている」
愛想のいい店主は白い前掛け姿のままニイっと笑った。
「知り合いかい?」
私はニイっと笑い返した。
「…父なんです。ずっと探していました」
人間の記憶というものは実に曖昧だ。
楽しい思い出はそのままに。
悲しい思い出は極上に甘い思い出に。
私と母を捨てて家を出て行った父。
彼を探していたのは、あなたがいなくても私は幸せになれるの、という台詞を叩きつけたかったからにすぎない。
白い仮面をつけた思い出は黒い真実をチラつかせる。
『じゃあ早く追いかけないと!』
店主が勢いよく店の扉を開けた。
『でも…やっぱり見間違いでした』
現実はただ粗削りのドラマのようで、無知だったあの頃の自分に還りたいと願う私。
真実は真実でしかない。
私に真実(まみ)という名前をつけてくれたあなた。
虚像で固めた、ずっと育ててきた綺麗な思い出が色あせないように、私は今日という記憶を静かに抹殺した。
さぁ。
もう一度仮面をつけようか……。
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